染、色を説く
初めましての人もそうじゃない人もこんにちは。おチビです。
ついに、最終章です。たぶん。(たぶん)
まず、染、色について書くのは3回目なので、初めましての方は是非、
汲む(くむ)、 釈す(せきす)から読んで頂ければ、と思います。
これは私のたどり着いた最終点。
いや、現時点での、私の終着点。
染、色 を私なりに説いて行こうと思う。
※ここから先はネタバレです。話の本筋に触れます。観劇前に読むことはお勧めしません。自衛してください。
※また、個人的な解釈であり、製作側の意図とは異なることがあります。
染、色の話を聞かせてください。
— (おチビちゃん)🎨 (@cnn2420) 2021年6月26日
ー感想でも、考察でも、共感でも、好きなセリフの話でも。
返信は気分次第です。
https://t.co/04UKz8A0Yn #マシュマロを投げ合おう
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染、色に隠されたあるテーマ
染色にはないが、染、色にはあるテーマが存在する。
それはギリシャ神話に登場するある怪物のことである。
劇中、何度も登場する印象的なヤギの周りにヘビがまとわりついた絵。
深馬と真未が対面し、はじめて一緒に描きあげたのもこの絵だった。
滝川先生が犯人であることを知るのも、真未が犯人であることを知るのも、この絵の前だった。
あまりにも印象的だったので「ヘビとヤギ」で検索してみる。すると『キマイラ』という生物がヒットする。
ライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つ。 其々の頭を持つとする説もある。
中世のキリスト教では、主に「淫欲」や「悪魔」といった意味で描かれた。
ライオンの頭を「恋愛における相手への強い衝動」
山羊の胴体を「速やかな恋の成就」
蛇の尻尾を「失望や悔恨」をそれぞれ表すとされています。
季節を表す聖獣で、ライオンが春、山羊が夏、蛇が冬を象徴している。
一般には、怪物の総称や妄想、空想を表わす普通名詞ともなっている。
生物学における「キメラ」の語源になる。同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態や、そのような状態の個体のこと。「異質同体」である。
一致する文言。ハマるパズル…間違いなくこれだ。と思った。と同時にシゲアキさんの思考の片隅を見た気がして、ゾッッと鳥肌がたった。
調べてみたところ、シゲアキさんのソロ曲には自身の作詞作曲している「Dreamcatcher」にエンプーサやアウローラ、ヒュプノスとギリシャ神話にまつわる言葉が3回も出てくる。前にテレビでもギリシャ神話に即座に反応してたみたいなので、シゲアキ先生、ギリシャ神話好きなのかな。
閃光スクランブルにもギリシャ神話が出てくるらしい。今度読もう。
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市村文登が深馬に、橋本美優が真未になったわけ
キマイラが間違いなく染、色のベースになっていることは分かったけれど、ライオンが見つからない。
劇中のイラストにはなかった。
「染、色 ライオン」で検索してみる。その時視界にふとひとつのツイート。
深馬ってなんて読むの?フカウマ?シンバ?それはライオンキングかw
…っそれ…!!!!
深馬って変わった字だね、美馬とかじゃないんだねって話してたんだけど、深馬じゃないといけないんだ。
深馬=シンバ=ライオン(スワヒリ語)
ライオンは深馬そのものだった。
このストーリーをするには市村文登ではダメだった。
彼は深馬である必要があった。
では少し考えてみる。橋本美優が真未になったことにも意味があるのか。
「君の名前なんて言うの?」
「真未」
「まみ…」
「君は?」
「深馬」
「みうま…まみ…マ行ばっかりだね」
十二支 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
この中に連続した巳(み)午(うま)と
午(うま)未 を見つけることができる。
深馬の み である
「巳」の本義は陽盛の極、漸く陰に移ろうとする所であり、全ての物が成長してしまったような状態
深馬と真未が重なる
「午」の本義は上昇する陰と下退する陽との抵触
真未の未という漢字になる
「未」の本義は陰気の支配であり、全ての物が成長しているような状態
深馬の陰気を支配し、成長に導いた真未。
真未は干支から来ている可能性がある。
(…が、これはただの妄想の膨らませに過ぎないかもしれない)
さらに巳はヘビで、未は中国でヤギという意味もあるようで、ますますキマイラと繋がるの。こわ。
あとは釈すでも述べた、「みうま」の中に「まみ」がいて、ビル街の絵がひっくり返ることもそれを意味しているのかもしれないということ。
真実、未来っていうことを表しているっていう解釈もある。
未が羊なので、黒い羊っていうのも考えたけど、"厄介者"とは違ったからこれは関係ないかな。
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突如出てくる目のイラスト
絵が壊された後、深馬と真未が最後に一緒に描いた絵、の最後に出てくる突然の目(その前の赤と黄色の竜っぽいのも完成しないままぐるぐるしちゃうから何なのかよくわからなかった。)
あれ、めちゃくちゃ怖くないですか?何?
深馬と真未のコンテンポラリーに感動していると、どんどん音楽が焦燥感漂うBGMに代わっていく。パトカーが近づいてくるような…私はこの音に赤色を感じる。危険とか、そういう感じ。
そして神秘的…というよりは不気味なBGMとともに現れる大きな目のイラスト。今までのグラフィティアートとは作風も違うし、白黒だし、これはアートとは別物なんだろうな。
深く私の中に残るんだけど、全然意味が分からないの。どうしても解釈したくてこねくりまくった。こねて伸ばして、またこねて。ストっとではないけど私なりに説いてみた。
あ、今から急にめっちゃ難しい話をします。難しすぎてうまくまとまらないし、解釈違い起こしているところもあるかも。ブワァーーっと調べたから全然出展残ってないんだけど。ほとんど引用した言葉。もう少し自分の言葉にかみ砕きたかったんだけど降参。
・エジプトのシンボル「ホルスの目」
エジプトにホルスという神の目がある。ホルスの目は右目と左目で異なる意味を持つ。
ラーの目(右目)…「自らを崇め敬わない人間を滅ぼすため」人間の松果体を表している。
スピリチュアル、つまり目に見えない世界では松果体は魂のありかといわれている。
深馬が6本目の指大喜利で1番に「スピ指」と名付けたの、すごく印象に残ってる。あとなんだっけ、「犯人はお前だ指」「それは人差し指の仕事でしょ」「締めのラーメン指」「そのあとのアイス指」だっけ…天才たちのテンポ感すごくてついていけない。
第三の目 物質と神経をつなぐ場所。魂のありかとは精神的に物事を感じることができる場所なのである。真実を知るうえで松果体つまり第三の目は最重要な器官であるとされている。
この目のイラストの後に、深馬が真実を知るシーンが描写されている。正確に言うと真実ではなく、深馬がつくりあげた歪んだ空間だったわけなんだけど。
第三の目は第6チャクラと言われていて、第六感がつかさどる場所。
チャクラとは体の中に宿るエネルギーが出入りしている7つの場所のこと。「車輪」や「渦」と訳される。その7つのエネルギーは常に回転していることから「回転」という意味もある。ヨガとかで使われる用語かな。
目のイラストの前のぐるぐる回転するアート、もしかしてチャクラを意味してる?っていう。それくらいしかこじつけるものがなかったの。これだけ伏線張られると全部に意味があるように思えてな!!!!!
でもこれまた、チャクラだと思うとめちゃくちゃ面白くて、原作の美優のスプレーで染まった色は黒…というより黒のような濃い藍色で、今回のポスターも、タイトル前の映像も濃い藍色なんだけど、第6チャクラの色は「藍」なんだよね。
第6チャクラが乱れていると、世の中と自分の真実を歪みなく見ることができなくなる。被害妄想につながる可能性も。
第6チャクラが乱れる原因は何か。本来のアイデンティティーと違ったアイデンティティーをイメージしてしまうとき。親の期待や考えにより、幼いころから自分はこうでないといけないという考えが埋め込まれてしまうことも原因の1つだという。
親や先生に「才能を無駄にさせない」といわれてアートの道に進み、今までなんの疑問も持たずにアートを続けるという、真未に「普通」と言わしめる深馬の生い立ち。「すごいね」「才能がある」と言われ続けて普通コンプレックスに陥っている深馬。本当は絵を辞めたいはずなのに、自分は絵が好きで絵を続けたいと思い込む深馬。深馬が作り上げていた滝川とのシーンで滝川から言わせた「非凡を気取ってる」もそう。
一貫して深馬のことを「すごい」と言い続ける杏奈は第6チャクラを乱す代表格かもしれない。
あと目の前のイラストで混ざり合う赤は第1チャクラ、黄は第3チャクラで
第1チャクラのエネルギーが不足すると恐れ、不安、拒食・やせすぎ、逃避、曖昧さ、体と心の距離がある、落ち着きがない状態につながる。
第3チャクラのエネルギーが不足すると受け身、服従傾向、エネルギー不足、体の冷え、自尊心の低さ、自信のなさ、意志の弱さにつながる。依存にもつながる。
なんかつながる気、するよね。でもよくわかんない(放棄)
赤は龍だと思うんだけど、黄色は上記の先入観ありきでライオンに見える。
レオナルドダヴィンチの作品に獅子とドラゴンの戦いという絵がある。ドラゴンと獅子の関係について調べたら面白そうなので、もし何かわかったら追記するかも。
蛇の神格化したものが龍だといわれていますし、龍退治は「無意識に潜む不安や破壊衝動を自我で制すること」だそうで、おもしろそう。
ウジャト(プロピデンスともいう)の目(左目)…「失ったものを回復させる」「完全なるもの」「修復されたもの」「すべてを見通す目」の象徴。
なんとなく、真未の存在を言語化したような言葉だなと思った。
ウジャトは蛇の形をしている。またヘビ。そして亜空間知能の象徴とされる。
亜空間というのは通常の空間とは異なる想像上の空間。日常に潜むもう一つの空間と言われている。ただし、完全な別世界ではなく、この世界に属する本来干渉し得ない空間を指す。
まさに、真未が存在した空間は亜空間なのではないだろうか。
亜空間知能には「あくま」が存在していることに気づきハッとなる。(深馬=シンバとおなじ言葉遊び)
真未という悪魔が深馬の中に入り込み、すべてを壊していく、いや、うまく付き合っていければ才能の開花につながったのかもしれない。
深馬「君は誰なんだ」
真未「誰かだなんてそんなに大事なことかな」
『お前は誰だ?』
名前、性別、年齢、職業、趣味や夢、過去の業績を出して『自分』を紹介しようとしても、それは《記録》に過ぎません。ことの難題さをお伝えできているでしょうか?私たちが言葉で造り上げた『自分という抜け殻』こそ、《亜空間知能》なのです。抜け殻は抜け殻に過ぎないので、満ち足りることはありません。《亜空間知能》は《記録》の拡張を目指し、あらゆる手段を使って『自分』の存在を主張します。
いや~~~~~~~~難しい。頭おかしくなりそう。降参。
まとまらないけど、なんかこの辺り関係してないかな、脚本家の思考か、演出家の思考かわかんないけど。ここからインスピレーション受けた人、だれか私のこのもやもやを言語化して(他力本願)
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秋に咲いてしまった桜って次の春も咲けるのかな
エピローグから出てきて、印象的な言葉。
ラストシーンにも象徴するように桜のシーンがある。
話の筋のキーになっていることは間違いない。
ちなみにこれ、シゲアキさん作詞ソロ曲の「星の王子さま」にも登場する
"秋に咲いた不時の桜は 次の春も咲けるのだろうか"
秋に咲く桜はそもそも存在するのか?
→存在する。 「狂い咲き」「返り咲き」「不時現象」などと呼ばれる。
なぜ秋に咲くのか?
→台風や害虫によって葉を失って、冬の気温を耐えるために蓄えている休眠ホルモンがなくなることにより、春と同じような気温になる秋に春と勘違いしてしまうことにより、咲いてしまう。
では、秋に咲いた桜は春にも咲くのか
→秋に咲いた蕾は春には咲けないが、1本の木の中でも秋に咲いてない蕾が代わりに春に咲ける
深馬がこの話にやたらと引っ掛かるのはどうしてか
→深馬は周りの期待や賞賛に反し、たまたま受験の時に調子が良かったので首席入学しただけで、自分はそんなにすごくないと言う。
たまたま受験の時に才能が開花していた=たまたま秋に咲いた桜
に見立てていて、また咲けるのか、という自分に対しての問いではないかと思う。桜の話をしながら、自分のキャンバスを見つめるのできっとそうだね。
では、深馬はまた咲くのか
→これは、かなり個人の解釈に差が出ると思う。
最後に真未が桜を浴びるシーンを、また咲けると解釈することもできるし、
杏奈を選んだことをもう咲かないとすることもできる。
ところで最後のあのシーン、杏奈に縋ったのか、別れ話を出すためか、どっちだと思う?
1回目の観劇の時、このあと杏奈とも別れてアートに向き合うんだ、と思ったんだけど、
2回目の観劇の後は、杏奈に縋ったように思えた。みんなの妄想を聞いてみたい。
本題に戻って、私の解釈は 咲かない。
私は、ポリダクトリーとして真未と深馬で活動し、周りに認められていたという事実がまやかしであったことを、
春と勘違いして咲いた(ま)みうま、と置く。
春と勘違いして咲いた桜、秋の狂い桜である。(おそらく舞台の時期は6月ごろであるがそこは不問とする。あ、でも病院のシーンでセミ鳴いてたっけ。)
キマイラは季節を表す聖獣で、ライオンが春、山羊が夏、蛇が冬を象徴している。
春夏冬。キマイラには秋の象徴がない。
つまり、秋は存在しないのである。真未と深馬が共に過ごした時間はそもそもなかった。と置き換えることができる。
ポリダクトリーとして評価されることと、見合う実力が出せることに快感を覚える深馬。そのポリダクトリーを滝川の手柄に譲る。つまりすごいと言われ続けるプレッシャーと戦うことに降参。これも深馬が絵に執着しなくなったことを表しているのかな。
どれだけあがいても最後のかたちはもう決まってる。変えられない。
滲むゆくえはしらないかたち。
両方パンフレットに載っている言葉なんだけど、上は劇中の真未のセリフで、下はフライヤーやHP、ポスターにも載っているんだよね。ところでは”知らない”って漢字表記なの、なんでひらがなに変わったんだろう。
最後に導いてあげているの。最初からこうなるはずだった。
絵を辞めたい深馬に口実になるわかりやすい悲しみを与えてあげたの。
あの時、話の筋としては、深馬の絵を壊すこと=わかりやすい悲しみ として扱われていたけれど、最後まで見て考えると、「自分を変えてくれたあの人は、実は存在しませんでした」ってそれが一番のわかりやすい悲しみだと思った。そんな残酷なことがあっていいのか。
やっぱり真未は深馬が絵を辞められるように現れたんじゃないかと思う。だから最初からこうなるはずだったことを知っているし、どれだけあがいても、真未という人格を作り出してしまった時点で、深馬が絵を辞めることは最初から”決まっていた”し、”変えられない”のではないか。そうなると、滲むゆくえはしらないかたちは深馬目線の話なのかな。
真未がいなくなり、絵をやめる理由ができた深馬が絵に縛られる必要は無くなった。ので深馬は絵を辞めて、杏奈を選んだというのが私のファイナルアンサー。
最後のシーンで真未が桜の花びらが舞う中、白いワンピースで上を見上げている姿は、深馬の中で真未の成仏する様子と、また別の形で咲けることを予感する終わり方だと私は解釈した。
秋に咲いた桜は春には同じ花は咲けなくとも、同じ木の中の違う花は咲けるそうなので。
君は何にだってなれるんだよ
深馬が最初に教えてくれた「何層も重ねられることが油絵の魅力」ということ。
一度ついた染みは消えないけれど、何層も重ねていくことができるというところがこの作品の最後に見せてくれた希望だろうか。
ここまで書いて、この終わり方だと咲くっていう結論じゃんって今気づいたんですけど、気づかなかったことにします(何故)
咲くけど、アートの世界からは退く、でいいのかな。ちゃんと死ねた深馬は、この先何をして生きていくんだろう。
-終わりに-
私はここまでたくさん噛み砕き、考え、書き記してきた。
たどり着いた「キマイラ」はその奇妙な姿から
『理解できない夢』
の象徴とされている。
それは深馬と真未に起こったこの出来事そのものだった。
結局、私たちが見た2時間10分は、いくら考えても答えが出るものではなく、ずっとずっと『理解できない夢』というのが答えでしょうか。
____理解できない感覚が気持ちいいだけ、酔っぱらってんのよ。
なあ、そうだろう真未。